【ヒルマニア】日米野球、伝説のMLBスター軍団を振り返る…18戦13発ルース、12戦12発サウアー

今年11月に4年ぶりの日米野球「MLBオールスターチームVS侍ジャパン」が開催される。
この年の米大リーグで、31勝、防御率2・06、175奪三振と“投手3冠王”となったレッドソックスのL・グローブは通算300勝をマークした剛球左腕。当時日本野球の最高峰だった東京六大学を中心としたチーム相手に38イニングで1失点(自責点0)、計55の三振を奪った。中でも早大相手の第2戦では8回からリリーフし、わずか21球で6者全員三振。
打者は一人もバットに当たらず空を切るばかり。ラジオ中継したアナウンサーが「グローブ投げました。球が速くて見えません」という実況は有名なエピソードだ。
3年後には、米大リーグ最高のスター選手、B・ルースが来日。39歳と衰えが目立ち、シーズン22本に落ち込んでいたが、初の極東の地で大暴れ、18試合にフル出場し打率4割8厘、来日メンバーでは史上最多の13本塁打をかっ飛ばし、33打点。第4戦から6試合連続の10発。
大雨で開催が危ぶまれた小倉での試合では、番傘に長靴といういで立ちで右翼を守って、本塁打も打つなどルース見たさに集まったファンを喜ばせた。ここまでは日本にプロ野球がまだ誕生していない時代。オールスターチームがプロ野球がまだ誕生していない時代。
メンバーはやや小粒だったが、2年後のメンバーは12試合で日本チームが3本しか打てなかった本塁打、121打点で2冠王となった長距離砲は、第2戦で後楽園球場の左翼場外にまで飛ばす大アーチ。
その試合で先発したのは通算400勝をマークするなど当時はプロ入り4年目で怖い者知らずだった金田正一投手だったが「全力で投げたが、サウアーは一番怖かった」と述懐している。その後の日米野球は単独チームがほとんどだったが、1986年を境にオールスターチームの来日が通常化していった。86年の本塁打数は日本2本に対し米国19本。
後に巨人軍に入団するJ・バーフィールドが4本塁打で最多の9打点。成績も米国の6勝1敗などこの年までは勝っても1勝がやっとということが多かった。しかし、アメリカとほぼ同じ広さの東京ドームができた88年は2勝3敗2分けと健闘。
巨人の槙原投手が9イニングを投げ失点1、自責点0の好投を見せた。90年は前年、阪神でプレーしたC・フィルダーが、大リーグのタイガースで本塁打と打点の2冠王に輝き凱旋来日し、注目されたものの、打率は1割4分3厘とさっぱりで全米がまさかの4連敗で史上初の負け越し。
また、最終戦はR・ジョンソン、C・フィンリーという左腕リレーでノーヒットノーランと意地を見せた。しかし、日本のプロ野球にもオリックスのイチロー、巨人の松井秀喜という有望な若手が出現。
全米の4勝2敗2分けだったが、得失点は46―38と大差なかった。イチローが11打数7安打と巧打を発揮すれば、松井は日本人選手で初めて全米相手に2本塁打を放って、ともにメジャーナインを驚かせた。また、途中から合流したプロ3年目の松井稼頭央が18打数10安打5盗塁。
“リトル・マツイ”と注目を浴びた。また、グリフィー、ボンズ、シェフィールド、ガララーガ、Aロッド、ピアザ、リプケン、ペドロ(マルティネス)ら同年の来日メンバーは史上最高とも言われた。M・マグワイアと世紀の本塁打王争いを演じた一人、S・ソーサが主役だったのは98年。
期待にたがわず打率4割8分1厘、3本塁打、10打点と大暴れ。日本は松井秀喜が唯一のアーチをたたき込んだ。00年は3度目の日米野球登場のB・ボンズが4本塁打、10打点と大暴れ。
36打数16安打は試合数が少なくなった86年以降では全米選手を含めて5本塁打した02年は、イチローも凱旋で打率3割5分5厘。16安打は試合数が少なくなった86年以降では全米選手を含めても最多記録だった。
一方、外国人選手でありながら全日本のオーダーに入ったカブレラは中村紀、松井稼とともに2本。
全日本は計8本で全米の13本に遜色ない数字だった。日本は開幕3連勝し2度目の勝ち越しのチャンスだったが、第4戦から4連敗してしまった。松坂大輔が全米相手に51年ぶりに完投勝利をマークした04年は投手陣が奮闘した一方で、野手は岩村明憲と赤星憲広がともに7盗塁とかき回したのが目立った。
06年春は、日本が3月のWBCで初の世界一となったが、同年秋の日米野球では全米が5戦全勝。この年にナ・リーグMVPに輝いたR・ハワードが巨人戦を含めるとボンズに並ぶ最多タイの5本塁打。この年の日米野球では全米が5戦全勝。
選手会とのあつれきで、以後しばらくは日米野球では全日本が開幕3連勝で2度目の勝ち越し。第3戦では則本昂大―西勇輝―牧田和久―西野勇士の継投で全米相手にノーヒッターを達成。

 
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