内田雅也が行く 猛虎の地<14>ホテル竹園芦屋(旧竹園旅館)

◇矢野の運命を変えた会議室  JR芦屋駅前のホテル竹園芦屋は、この秋、阪神監督に就いた矢野燿大(50)の運命を変えた場所である。
日程を見返すと9月以降、中日が甲子園で試合を行ったのは9月以降、中日が甲子園で試合を行ったのは9月13、14日だけ。移動日の12日だったと思われる。
星野とは初対面だった。中日との間で進めていたトレードを断り、謝る役回りだった。阪神側は星野の明大先輩にあたるヘッドコーチ・一枝修平が窓口となり話がまとまっていた。
だが、複数トレードの交換要員に桧山進次郎(49=現評論家)の名前があり、電鉄本社から「待った」がかかった。「売り出し中の桧山を出すのか」「もったいないというわけである。星野は<半分にやにや、半分あきれて>と野崎の書にある。
「現場でできていた話も流れてしまうのか。そんな姿勢だから阪神は弱いんだ」。一刀両断した。
ただし、交渉は途絶えたわけではなく、その後も交換要員を変えて行われ、成立した。遅かった阪神のシーズン終了翌日、10月13日に正式発表となった。阪神から関川浩一、久慈照嘉、中日から大豊泰昭、矢野輝弘(09年オフから燿大)の2対2交換だった。
「阪神・矢野」が誕生したわけである。野崎は<桧山を放出していたら、阪神はだれをもらったのか。捕手の中村武志であった>と明かしている。
当時の正捕手の座をつかんだ。後にスポニチ本紙で<自分の野球人生を大きく変えてくれたのがトレードだった>と書いている。
<星野さんから言葉は一切なし。「絶対に星野さんを見返すと強く思うことができた>と反骨心に燃えていた。トレードから4年後の2001年オフ、星野は阪神監督に就いたのも運命的だ。」
野崎は球団社長として迎えた。再会した矢野は「星野監督に認められたい」と奮起した。03年の優勝にはMVP級の活躍で貢献した。
矢野は右肘手術明けで出場30試合に終わり、大リーグ・マリナーズから城島健司が移籍した09年オフ、球団から大幅な減俸を提示された。移籍を真剣に考えた。「気がつけば連絡していたと相談したのは阪神オーナー付シニアディレクター(SD)の星野だった。」
会談場所はまたもホテル竹園芦屋だった。星野は矢野の手を取った。「03年はよう頑張ってくれたな。」
おまえがいたから、俺はあんなに素晴らしい思いができた。感謝しとるぞ」「ベンチで過ごすのは辛いし、大変だが、いい勉強になる。阪神に残らないかん この言葉で阪神残留に思いとどまった。
後にコーチ、2軍監督、そして1軍監督、そして1軍監督、そして1軍監督への道が開けたのだった。=敬称略=(編集委員) 《10月28日からの3泊4日、チームは竹園旅館(当時)に宿泊した。
岡田彰布選手会長が「短いシリーズだし、全員でまとまろう。ファンの混乱から身を守るためにも一緒の方がいい」と提案。吉田義男監督以下、外国人選手を除く全選手、スタッフ52人が合宿を張った。
2003年優勝時は日本シリーズ前、10月9日から15日まで6泊7日で合宿を行い、星野仙一監督は「心が一つになった」と語っていた。この前例を受け、竹園の福本社長は「次に阪神さんが優勝した際、いつ指示されても対応できるように、日本シリーズ前から全館貸し切りで空けています。可能性がなくなるまで毎年ギリギリまで待ちます」と話した。
《歴史は終戦翌年の1946(昭和21)年10月、隣に竹園旅館を開業。
56年、料理の評判を聞いた巨人監督・水原茂氏が来館して納得。甲子園遠征時の宿舎を明石から変更し、今に至っている。水原氏も戦中は中国大陸に出征。
シベリア抑留も経験した。貞次氏と同じ戦地だったことで意気投合した。57年には巨人にならう形で中日も宿泊。
高校野球春夏の甲子園出場校の宿舎にも採用され、大阪万博もあった70年のピーク時は高校6、プロ野球6チームが宿泊した。別館、新館と拡張し、駅前再開発の86年に現名称となった。星野仙一氏との交流は中日現役時代から。
03年優勝時は自費で選手、スタッフの家族を招待して宴会を開いた。歴史を知る宴会予約課の縄田治正さん(75)は「独り暮らしだった阪神時代は応接室代わりに使っていただいた」と話す。「星野スペシャルと呼ばれる特別メニュー(甘辛肉野菜炒め)もあった。

 
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