こだわり続けた「長嶋ジャパン」/長船騏郎氏

元全日本アマチュア野球連盟会長・長船騏郎氏は、プロアマの垣根を越えた日本代表チーム編成に尽力した。
長船が亡くなった直後、闘病中の長嶋がつづったコメントに故人への深い感謝が込められていた。「侍ジャパンという言葉もなかった時代。2人はアテネ五輪で最強チームを編成し、金メダルを取る夢を共有した。」
プロアマ混成で臨んだ00年シドニー五輪は4位。ファンはドリームチームを渇望していた。長嶋監督をシンボルとして、初のオールプロによる日本代表を編成する-。
プロアマ合同で組織された日本代表編成委員会委員長として、長船は「長嶋ジャパン」を誕生させた。「しげと呼んだミスターとの出会いは55年。立大2年の長嶋は東京6大学リーグ選抜として、長船は「長嶋ジャパン」を誕生させた。
初の国際大会で4番を打ち、特大本塁打を放つなど活躍。連盟の職員として同行し付き合いが始まった。東京・渋谷の日本学生野球協会に並んだ東急文化会館(現ヒカリエ)の2階には、プロ入り後も長嶋が通った文化理髪室があった。
長船も同じ場所で髪を整え続けた。出会いから約半世紀後、アテネ五輪予選ではともにベンチ入り。全勝で五輪切符を獲得した翌年に、長嶋は脳梗塞で倒れた。
長船と23年間過ごした日本学生野球協会・内藤雅之事務局長(57)は「プロ側とも話をして、あくまでも監督は「長嶋茂雄」と言い続けてましたと回復を信じた。大会で指揮を執った中畑清の肩書は監督代行のまま。最後まで「長嶋ジャパン」にこだわり続けた。
  ◇    ◇    ◇   07年11月9日、神宮には青空が広がっていた。大学日本一を決める明治神宮大会開会式前、学生野球の聖地で長船の「お別れ会」が行われた。マウンド前に設けられた祭壇に、花ではなくボールが手向けられた。
星野仙一、山本浩二、高橋由伸、桑田真澄…プロアマ関係者約600人が別れを惜しんだ。「長嶋ジャパンから08年北京五輪の「星野ジャパン」へ。道筋をつくったのも長船だった。
「おやじ」と呼んで慕った星野は「島岡(吉郎=元明大監督、故人)のおやじの次に厳しいおやじだった。五輪への野球参加に尽力された方。頑固おやじがいなくなってしまった」と悔やんだ。
その星野も1月に死去。内藤は「長船さん、長嶋さんの時のプロ、アマ合同の日本代表編成委員会が今の侍ジャパン体制の前身。貢献は大きいと思います」と言う。
過渡期を支えた存在があって、今がある。【前田祐輔】◆長船騏郎(おさふね・きろう)1924年(大13)1月30日生まれ。岡山県出身。
天理中から早大に進み、捕手として活躍。42年の秋季リーグ優勝に貢献した。52年から日本学生野球協会に勤務。
全日本大学選手権、日米大学野球開催などを手がけた。全日本アマチュア野球連盟結成にも尽力し、07年には会長を務めた。また04年のアテネ五輪では日本チームの団長を任された。
06年に旭日双光章を受章。07年9月に83歳で死去。12年、野球殿堂入り。

 
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