巨人軍在団45年 小松敏宏が見た巨人のV9

【越智正典 ネット裏】小松敏宏。
立っていた。「タイガースを見に行くお客さんの席なんだ」。それは誠実な彼の人柄そのものだったが、巨人V9の所以でもあったし、また、この4年連続勝てない巨人再建への教訓だともいえる。
左投手が多かった1957年のセンバツは、決勝で早実の2年生左腕、王が優勝投手になった。誕生日前だったので王は16歳だった。小松は大会前、風邪で高熱、確か前田病院だったが入院していた。
しかし出発の日が来ると、病室を抜け出し、高知港に駆けつけ、みんなに挨拶、関西汽船に乗船した。心配した母親が無事を祈って学校に願い出た。「大会中は名前を「俊広」にして下さい 58年巨人に入団。
契約金200万円。ファンにははなやかに映る巨人もこのときは、まだ給料は15日と月末の2回仕送りをした。
特訓の“ふるさと”になる、多摩川グラウンド開場から3年目。巨人軍寮があるむこう岸まで渡し舟があって30円だった。「巨人はON時代ではありましたが、川上監督で勝ったのです。」
大監督です。先乗りになったとき、いいデータを送れ、しっかり頼むぞ…などとはいいませんでした。まるで監督自身に向かっていうように“巨人軍がプロ野球球場に行くんだなあー”。
品格、立ち振る舞い、王者らしく、巨人軍らしくあれ…。そういう言葉ではありませんが、そう諭して下さったのです 試合が終わり、宿に帰ると小松は3通報告書を書いた。投打の対戦を詳述した選手用。
ここというときの相手チームの選手のなかでだれが気力があるか。
書き終えると、もう朝になっているのも珍しくなかった。「いまの巨人にはびっくりします。打撃練習のときにヘルメットをかぶっていないコーチ、選手がいるんです。」
“まっこと、いかんちゃー”です。自分を守るためではありません。勝つためです。
その日出られなくなる選手が出ると総動員が出来ません そういえば61年対大洋13回戦に勝ったのは控え捕手、佐々木勲(下関商、明治大)の右翼線に落ちたポテンヒットだった。白い粉がパッと散った。「全力疾走も勝つためです。」
1本の内野安打で1対0で勝つかも知れないからです「川上監督はよく口ずさんでいました。教えられました。一人ひとりが巨人軍そのものであれ、と。」
「“思い出さずに忘れずに”――」 =敬称略=。

 
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